敬意

今朝の朝日の社説を読んで違和感を感じた。
asahi.com(朝日新聞社):社説 魚拓
二つある社説のうちの後半、問題と感じる部分はここだ。

たしかに日本人の英語下手はよく知られるところだ。ノーベル賞を受賞した益川敏英さんのスピーチは、その象徴といえるかもしれない。中学、高校と6年間学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならない。

日本人の英語下手は本当によく知られているのか? 他の国はどうなんだ? 確かに、中国や韓国の人でアメリカに渡った人なんかは英語でコミュニケーションを取るのが上手だが、母国に残った人が全員英語を喋れるワケではなかろう。まあ、何らかのエビデンスがあるんだろうから、軽くデータくらい出しといて欲しいもんだ。さらに、ノーベル賞を受賞した益川先生の取り上げ方が、敬意のかけらも感じられない。確かに、益川先生は、英語をお話にならない。それを英語教育のせいだとするならば、日本人の英語下手がよく知られるところだと仮定したうえで、

たしかに日本人の英語下手はよく知られるところだ。ノーベル賞を受賞した益川敏英先生でさえ、英語を話せないとおっしゃるのだから、中学、高校と6年間普通に学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならないのだ。

みたいには書いて欲しいところだ。ま、所詮、社説を書くようなレベルの人たちは、他人に対する敬意なんて持ち合わせてはいないんだろうけど。

以下は全文。

高校指導要領―英語で授業…really?

 高校の英語の先生たちの中には、頭を抱える人も少なくないだろう。

 「英語の授業は英語で指導することを基本とする」

 13年度から全面的に実施される高校の学習指導要領案が公表され、初めてそんな一節が入ったのだ。

 指導要領は、文部科学省が小学校から高校までの学年ごとに教える内容や時間数を定めたものだ。ほぼ10年ごとに改訂されている。

 それにしてもreally(本当)?と、いいたくなるお達しである。

 たしかに日本人の英語下手はよく知られるところだ。ノーベル賞を受賞した益川敏英さんのスピーチは、その象徴といえるかもしれない。中学、高校と6年間学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならない。

 ますます国境の垣根が低くなる世界で、英語は必須の伝達手段になってきた。だから英語教育を変え、会話力を育てたい。それはその通りだ。そのために授業自体を英語での意思疎通の場と位置づける。その発想もいい。

 ただ現実の授業を想像してみよう。

 あいさつや簡単な呼びかけを英語でするだけなら、これまでと大差はない。しかし、文法を英語でわかりやすく説明したり、生徒の質問に英語で答えたりすることは簡単ではないだろう。できたとしても、どれほどの生徒が理解できるだろう。

 すでに英語での授業を実施している学校もある。だが、実際は現場の教師や生徒の能力に左右されるところが大きい。無理やり形だけ整えても、効果は乏しいだろう。

 もう一つの懸念は、大学入試を意識する進学校などにとっては、利点がそれほど大きくないということだ。大学入試センター試験などでリスニングが導入されているとはいえ、相変わらず読解問題や英作文などが主流では、おいそれと余分な負担を引き受けるわけにもいかないだろう。

 いきなり英語で授業、と言われても現場は混乱するばかりだ。使える英語を身につけるためには、どうすればいいのか。そのために英語教育をどう変えるべきなのか。その道筋と環境作りを大枠で整えることが先決であり、文科省の仕事ではないか。

 教師の育成やカリキュラムの検討はもちろん、入試問題の改革も視野に入れなければならない。11年度から全面実施される小学校高学年での英語活動も含めて、総合的な検討が必要だ。

 ただ文科省が指導方法まで一律に決めても、右から左にできるものではない。実のあるものになるかどうかは、各学校の生徒と教師のレベル、学習環境などによって大きく左右される。

 指導要領は大枠にとどめて、実際の運用は学校に任せる。それが現場の力を引き出すことにつながる。