学位の意味
何でもそうだけど、取るまでは大変だけど、取ってしまえば大したことない。だから、持ってない人には大変だと思われるようなことでも、持ってる人にとっては持ってるのが当然のことだから全然スゴくない。医師免許しかり、医学博士号しかり。資格ってことだけ言えば、私は資格マニアだから、医師のくせに何で持ってるの?って資格がいくつかあって、まあそれを英語の履歴書に書いてみて、先方にウケを狙うくらいの効果はあるわけだけど。
本業の医師免許とか医学博士号とかは、取るまでは大変だった。医師国家試験に向けての勉強はもうしたくないし、学位審査を受ける際のあの緊張感はもう味わいたくない。でも、医師であるためには、医師免許を取ってからの研修がその後の医師の技量を決める重要なファクターであるし、学位に至っては、恩師には、「学位を取ってからが本当の研究だよ」と言われ、現在、アメリカで研究者の真似事をしながらもつくづくそう思う。だから、研究者であるための資格としての博士号は、その意味を成すのはその後の研究次第なのであろう。そんな人たちは、多分、一度学位を取り上げられても、何度でも学位審査にトライ出来るだけの査読論文も研究テーマを持ち合わせているだろう。
一方で、医学博士は、学位を取った後に、普通に医師をしている人たちもかなりいる。まあ一部の病院では、学位があると給料がチビッと上がるところもあるから、そういう点ではメリットがないでもないが。医師が学位をとるために研究生活をすると、その人の性格にもよるけど、研究者的な視点が身に付くというか、もっと下世話なレベルでいえば、抄読会とかがあるから、英語の文献にも慣れるとか、実験で手を動かすから何となくそういうことも覚えるっていうか、プレゼンもしなきゃいかんからパワーポイントのスキルが多少身に付くとか、細かいメリットもあるもんだ。まあそういうことは別に研究生活でなくても身に付くと言われてしまうとそれまでなんだが、何よりも、忙しい臨床を離れて、少しホッとする、人生にはそういう瞬間があってもいいんだと思う。私なぞはそのままホッとしっぱなしなんで救いようが無いわけだが。ま、それはともかく、曲がりなりにも大学で研究生活をした、その証としての博士号、これも立派だと思う。
そんな中で、その学位の意味を無にしないためには、授与するにあたっての審査過程が重要になってくるだろう。他学部のシステムは知らないので触れないことにするが、医学系においては、少なくとも学位論文はPublishされた査読論文であるのは絶対条件だと思う。そうすることで、主査・副査の先生方の審査の負担を軽減することもできるだろうし。あと主査は身内はダメでしょ。これらを満たすだけでも全然違うと思うなぁ。ホントは、審査の先生は外部から招聘、とかいうシステムが理想的なんだけど。なかなか人選が大変だろうな。人選といえば、私のときは、「AとBを用いた、Cに関する研究」で、私としてはCをメインに据えて審査員の先生方を人選して頂きたかったのだが、AとBの分野の人ばっかりで、それもAについては日本の、いや世界の大物みたいな教授が審査員に入ってしまって、今では「僕の学位審査の審査員ってXX先生とかYY先生入ってたんだぞ〜」とか他人の威を借る自慢をしたりもするんだけど、当時はビビりまくってました、ハイ。ちなみに学位審査の時には、緊張しまくって質問に答えるのにエライ遠回りして答えてしまったり、大変でした。それも今では良い思い出なんですけどね。でも、それくらいの方が、学位を取れた、という実感も湧いてくるもんだと思うんだな。だから、私は、学位にお金は払ってないけど、すごくありがたく、大事にしたいと思っていますよ。学位証書は一応、額に入れて家に飾ってますけど、何か変に大きな証書なもんで、額縁を探すのが大変でしたよ。そんな私も、開業とかしたら待合室に飾ったりするんでしょか。
私にとっての学位は、海外に出たら何となく有り難い感じがするけど、日本での有り難みはまだ分からない。何にせよ、帰国してからの仕事次第なんだと思う。それが、医師であるか、研究者であるかに関わらず。