自分のことが見えてない

私も含めて、なんらかの記事を発信する人間は、気を付けたい。
奈良 支局長からの手紙
ちょっと古い記事。せっかくの伝統を汚す身内の若者の話を自慢げにしているイタイ記事、と読めないでもない。そうは読まれたくなければ、書き方を考えた方がいいと思うが。そしてオチがこれでは、笑いも取れやしない。冷笑なら取れそうだけど。影武者でない、ホントの支局長クラスの文章なら、寒いものを感じるが、皆さんはいかに。
以下は記事。

青鬼の謎 /奈良
 今月3日節分の夜、興福寺・東金堂の舞台で、支局の黒岩揺光が青鬼を演じました。観衆に向けてVサインは出すは、太鼓に合わせてステップを踏むは、ついにバランスを崩して尻餅はつくはと、大暴れ。毘沙門天にとどめを刺され無事に大役を終えるまで、舞台下で見物する“保護責任者”としてはヒヤヒヤし通しでした。
 奈良支局の若手記者が興福寺の鬼追式で青鬼役を務めるというのは、奈良に来る前から知ってはいたのですが、「何でそんなことに」と、ずっと私なりに謎でした。
 興福寺多川俊映貫首からは「青山茂記者の時代に始まって以来、ずっと変わったことがない」とうかがいました。青山さんは1950(昭和25)年から11年間、奈良支局で活躍、大阪学芸部などを経て現在は帝塚山短大名誉教授。「奈良学」提唱者、美術史家としても知られます。
 先日、その青山さんに会い、謎が解けました。「これにみんな書いてあるよ」と著書「奈良の街道筋・上」をいただいたのですが、不勉強を恥じるより先に、その場で矢継ぎ早に聞いてしまいました。
 興福寺が3匹の鬼と毘沙門天で節分の儀式を始めたのは52年。当時、薬師寺では五重塔に鬼が乗るなど鬼追式が人気で、法隆寺でも鬼が舞台隅々で所作をし最後にたいまつを投じる形式が有名だった。青山さんは、興福寺の仏像、寺宝を東京の百貨店で展示公開する催事を手がけていた縁で、うちでもぜひ鬼の儀式をあんたがやって、と頼まれ、暴れる薬師寺法隆寺式所作をミックスした演技を考案したのだそうです。最初は青山さんともう一人支局の記者とで毎日の鬼役は2人。青山さんは「当時、鬼の面のままたいまつを持って界隈を練り歩くと、おひねりがもらえたもんだ」と懐かしそうに話してくれました。以来青鬼は毎日記者が引き継ぎ、赤と黒鬼は寺関係者が演じてきたということです。
 話の最後、青山さんは「そういうのが歴史というものだよ」とつぶやきました。先輩記者が築いた風物詩が、変わることなく受け継がれて55年。分かったことは、「来年演じる記者は、Vサインなどしないよう、元祖青鬼のところできちんと所作を教わってから舞台に立たせよう」ということでした。【奈良支局長・井上朗】
毎日新聞 2007年2月18日